バイオグラフィー
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生年月日
1979年 3月 29日 (46 歳)
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出身地
Ōme, Tokyo, 日本
篠原 ともえ (しのはら ともえ、本名:篠原友恵、1979年3月29日 - )は、日本の歌手、タレント、女優、デザイナー、音楽プロデューサー。
1990年代末期に個性的なファッションと強烈なキャラクターで、「シノラー」ブームを巻き起こした。
東京都青梅市出身。出生地は東村山市の病院。実家は寿司屋で、3人兄妹の末っ子で長女。
幼少時は大人しい性格だったが、小学4年の時にバレエを始めたのを機に明るい性格に変わる。
中学1年の時に軽音楽部でバンドを始める(ギター担当)。
中学2年頃からデザインに興味を持ち、服を自作するようになる。
母親の影響で漠然と芸能人を目指すようになり、中学3年の夏休みにソニーの「ちょっとそこまでオーディション」を受けるが落選。しかし、審査員の一人に気に入られ、SDグループに出入りするようになった。
1994年4月、東京都立八王子工業高等学校応用デザイン科に進学。
しばらく宙ぶらりんの状態が続くが、同年秋、オーディションの時の担当に連れられてモダンチョキチョキズのライブを観に行った際に、ライブ終了後の楽屋でファン意識丸出しではじけていたところを音楽関係者に注目される。
まもなくキューン・ソニーの社長石井俊雄(当時)に引き渡され、所属事務所が決まる。
1995年春、キューン・ソニーの事務所で遊んでいたところをソニーのラジカセ「Dr.CHANGER」のCMの企画を持ってきたディレクターに見出され、女性ミュージシャンのプロデュースに興味を持っていた石野卓球に引き渡される。
同年7月1日に「篠原ともえ+石野卓球」名義のシングル「チャイム」でデビュー。
1996年春から夏にかけて、シングル「やる気センセーション」「クルクル ミラクル」のプロモーションで積極的に音楽番組に出演し、特異なキャラクターとして注目される。
同年10月から音楽バラエティ番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ゲストの楽屋襲撃コーナー「篠原ともえのプリプリプリティ!!」での機転の利いた傍若無人ぶり、ハイテンションなキャラクターで人気を得ると、数々のバラエティ番組でひっぱりだこになる。
1997年3月1日発表のシングル「ウルトラリラックス」を最後に石野卓球がプロデュースから手を引く。
同月に東京都立八王子工業高等学校応用デザイン科を卒業。
本格的にファッションデザインを学ぶため戸板女子短期大学被服科に進学するが1年で中退、翌年に文化女子大学短期大学部服装学科へ入学し直している。
同年4-6月、ドラマ『FiVE』で連続ドラマ初出演。
同年8月には映画『デボラがライバル』で銀幕デビューも果たす。
1998年、前年からCMで共演していたユースケ・サンタマリアとのユニット「カロゴンズ」として2枚のシングルを発表。
同年8月発表のアルバム『MEGAPHONE SPEAKS』からはセルフ・プロデュースのもと、作曲を始める。
同年末に所属事務所を移籍。
1999年、DREAM MACHINEに移籍。
女性ミュージシャン用レーベル「Vita Celeste」発足第一弾ミュージシャンとしてシングル「君んち。」を発表。
東京都内(23区)の駅構内や列車内中吊りに非売品CDを組み込んだポスターを貼り出し、「ご自由にお持ち帰りください」という前代未聞のプロモーションを行う。
同年3月29日、20歳の誕生日に日本武道館でライブ「篠原ともえお誕生日会 IN しのドーム」を行う。
2000年1月、自主レーベル「JAGGED APPLE」レーベルを設立し、芳野わかめをCDデビューさせると、同年5月にはレーベルと同じ名を冠したファッションブランド「JAGGED APPLE」を設立し、ファッションショー「しのコレ」を行う。
同年10月に作詞・作曲・衣装デザインを手掛けたミュージカル「天使からの招待状」で初舞台を踏む。
2001年3月5日、アルバムのプロモーションで訪れた台湾で過労のため入院。
取材に応じてもらえなかった一部の台湾のマスコミが「泥酔してホテルで大暴れ」と面白おかしく書きたて、日本のマスコミもそれに乗ったため、帰国後、マスコミへの釈明に追われることになった。
台湾騒動の最中、3月12日に文化女子大学短期大学部服装学科を卒業。
同月末にレギュラーの音楽バラエティ番組『Music Museum』『LOVE LOVEあいしてる』が相次いで終了すると(『LOVE LOVEあいしてる』終了は台湾の事件とは全く関係なく、2月末に公式ホームページ上で終了が告知されていた)バラエティ番組の一線から身を引いた。
同年夏、新曲録音中にのどを痛めて音楽活動の一線からも身を引く。CMには出演を続けていた。
2002年、日本初のインターネット生中継でのレギュラープログラム 『Happy Store』でパーソナリティを務める。2003年、親友の松本英子とポップユニットZuTTOを結成、翌年に300円CDを発売し、話題になった。
2004年5月から子供番組『モンすたージオ』に出演し、同年8月にはアストリッド・リンドグレーンの童話『長くつ下のピッピ』原作のミュージカル『長靴下のピッピ』に主演。
同年から再び音楽活動も精力的に行い、2005年にはチボ・マットの本田ゆか、chikage、スティーヴ・エトウとのアート・ユニットPANIKARAQS、2007年にはDJのKAGAMIとのエレクトロポップユニットTokyo Flash!!!などさまざまなジャンルでの音楽活動を行っている。
1996年夏から1999年にかけて、個性的な篠原のファッションを模倣するティーンエイジャーの女性が数多く現れ、一種のファッションリーダーと化した。
当時華盛りだった安室奈美恵のファッションの模倣者「アムラー」になぞらえた「シノラー」と呼ばれるファンを多く抱え、まもなくその名が篠原の愛称にも転じた。
当時の公式サイトも「SHINORER'S CLUB」という名称で、1997年1月1日にはファンクラブ「SHINORER'S CLUB"ぽよよ〜ん"」が設立されている
(公式サイトは2002年に「シノハラトモエ ドットコム」に改名、2004年に再度改名し、現在の形態に定着。ファンクラブは2003年4月にクローズしている)。
シノラーの構成要素は、お団子頭で前髪パッツン、原色の服(初期はSUPER LOVERS)、ハーフパンツにサスペンダー、くしゃくしゃ靴下にごつごつとした靴(初期はドクターマーチン)、個性的な化粧、100円ショップで売っている無意味にキラキラしているアクセサリー、おもちゃの腕輪と指輪、腕時計、縁日の露店で売っている腕パッチン(篠原曰く「ミラクル・パッチン」)とカメレオン棒、おもちゃをいっぱいに詰め込んだポシェット、ゴーグル、そしてランドセル。以上の品をランダムに身に付ける。
トレードマークのお団子頭は、事務所に所属する前に「自分が一番伝わるスタイル」と自分で考え出したもので、前髪パッツンは切ると気合が入るから。その他の髪型はヘアメイクによるもの。
服装は初期はスタイリストの手によるものだったが、シノラーファッションが定着した後は自作の服に移行している。
篠原本人は、1997年12月に発表した初のバラード「ココロノウサギ」からランドセルを背負わなくなり、それ以降、曲調によって脱シノラーをすること(客席にシノラー禁止令が出るほど)が増え、デビュー当時のようなファッションをすることは徐々に少なくなっていった。
その後、デビュー10周年を迎えた2005年の10月に改めてシノラー卒業宣言を行なっている。
2008年1月9日には小学生の頃から伸ばしていたロングヘアーを切り、シノラーのトレードマークのお団子頭をする事が不可能になった。
JAGGED APPLE
篠原プロデュースのインディーズ・レーベル、ファッション・ブランドの名称。
「(地球に見立てた)りんごをかじる」が名前の由来。
インディーズ・レーベルとしてのJAGGED APPLEは1999年末、所属事務所の後輩(当時)の芳野わかめをプロデュースするために設立。
2000年1月、シングル『2000★』を発表し、レーベルとしての活動は終了。同年10月、芳野わかめが企画物でメジャーデビューした際に、クレジットでJAGGED APPLEにスペシャルサンクスを贈っている。
ファッション・ブランドとしてのJAGGED APPLEは2000年5月、ファッションショー「しのコレ」を開く際に設立。その際に篠原がデザインした服は新宿のマルイザッカや自らの公式サイトで販売された。
所属事務所移籍にともない現在は活動を中断している。
エピソード
高校3年の時に、ある産業組合のポスターのコンテストで全国1位を獲り、表彰されている。しかし、応募者は7人であった。
篠原が一時期よく使っていた「チェキー(Check it)」という言葉を番組プロデューサー水口昌彦が気に入り、企画していたアイドルグループの名前をチェキッ娘に決定。
『LOVE LOVEあいしてる』のレギュラー企画の特別版「篠原ともえのプリプリプリティ!!! International」で、海外ミュージシャンとの交流が多数あり、その一部は単体の企画以上の成果を上げた。以下は一例。
フリオ・イグレシアス - 1997年に突撃。それがきっかけになり、彼の1999年のベストアルバム『マイ・ライフ』で「ジェガステ・ア・ミ・ヴィダ 晴れた空そんな日に」をデュエットすることになった。日本盤のみの収録。
エアロスミス - 1998年に突撃し、一瞬ではあるがその際の映像が、彼らの1998年のシングル「FULL CIRCLE」のプロモーションビデオに使われている。一方、篠原は同企画直後に、スティーブン・タイラーとの出会いと別れをテーマにした「ハロー・スティーブン」(作詞:篠原ともえ/作曲:篠原ともえ、長谷川智樹)という楽曲を製作、スティーブン・タイラーからもらったブルースハープを全面にフィーチャーしている。
ショーン・レノン - 1998年に突撃し、むりやり意気投合。同年9月17日に、ショーンのライブに飛び入り参加して驚かれている。
2005年頃、アニメ『こどものおもちゃ』がフランスでヒット。篠原が歌っていた後期OP曲「ウルトラリラックス」にも注目が集まり、クラブで頻繁にプレイされるなど話題になった。そのため、篠原は2005年11月、2006年3月・6月に渡仏、パリでライブを行なっている。
乱杭歯(八重歯)が特徴だったが、矯正により歯並びは昔と変わっている。
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