バイオグラフィー

  • 活動期間

    1963 ~現在 (62 年間)

  • 出身地

    London, England, イギリス

  • メンバー

    • Alan Glen
    • Chris Dreja (1963 – 1968)
    • Eric Clapton (1963 – 1965)
    • Jeff Beck (1965 – 1966)
    • Jim McCarty (1963 – 1968)
    • Jimmy Page (1966 – 1968)
    • John Idan (1994 ~現在)
    • Keith Relf
    • Paul Samwell-Smith (1963 – 1966)
    • Ray Majors (1994 – 1995)
    • Top Topham (1963 – 1963)

ヤードバーズ(英: The Yardbirds)(1963年 - 1968年、1992年 - )は、イギリスのロックバンド。

本国イギリスでは、どちらかというと通好みのバンドであったという。

バンド名の由来は、ジャズメンのチャーリー・パーカーのあだ名である「ヤードバード(囚人)」から来ている。 メインボーカルであるキース・レルフは、歌唱力にやや問題があったものの、ハープの演奏に長けており、かつハンサムだったので、女性ファンも多かった。そして、エリック・クラプトンやジェフ・ベック、ジミー・ペイジら3人の個性的なギタリスト達も、ギタリストを目指す若者達の心を常に捉えてきた。

著名な「三大ギタリスト」を輩出したことのみを語られてしまうことが多いが、その音楽性は幅広く、ブルース(R&B)やロックンロールなどを主体に、フォークやクラシック、ポップスを融合し、更にサイケデリック・ロックとハードロックの基礎を築いた。その先進性は、後進のロック、ポップスのアーティストに多大なる影響を与えた。 また、ギタリストだけでなく、マネージャーも彼らの活動していた約5年間に3人交代しており(そのため、マネージャー毎に就任していた時期の音源の権利をそれぞれ保有している形となり、CDリリースの際発売する会社がアルバム毎に異なってしまうことが多い)、とにかく人間の入れ替わりが激しいバンドであったといえよう。

また、同時期に人気のあったバーズとバンド名が似ていることから、ライブで観客から間違えられることもしばしばあったという。それでもメンバーは、即興でバーズの楽曲を演奏するなど、サービス精神も旺盛であったようだ。

1960年代前半、ロンドンで人気のあったライブハウス「クロウダディ」で、プロデビューしたローリング・ストーンズの後釜で演奏を始めたのが彼らヤードバーズである。当時のマネージャー、ジョルジオ・ゴメルスキーによると、悪ガキっぽいイメージのあったストーンズとは一味違ったスタイルのバンドを、クロウダディの舞台に立たせたかったという。

最初期(1962-1963年) [

キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
ポール・サミュエル=スミス(ベース)
クリス・ドレヤ(リズムギター)
トニー・トップ・トーパム(ギター)

当初は、このメンバーで活動を開始。この時代からクラプトン脱退までは、純粋なリズム・アンド・ブルースなどのカヴァーを志向するバンドであった。 しかし、リードギターのトーパムが両親の反対を理由に、間もなく脱退する。 そして、レルフの友人であったエリック・クラプトンがリードギターとして加入した。

クラプトン時代(1963-1965年)

キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
ポール・サミュエル=スミス(ベース)
クリス・ドレヤ(リズムギター)
エリック・クラプトン(ギター)

この当時の空気を伝えるのが、彼らのファーストアルバムにしてライブ盤の『FIVE LIVE YARDBIRDS』である。メンバーは全員黒スーツ。そしてスローなブルースのカバーをハイテンポかつ大音量で、そして1曲を30分近くかけて演奏するという独特なスタイルであった。 また、アメリカのブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンのライブの伴奏も務め、アルバムも発売された。 ライブでは人気のあった彼らだが、発表するシングルはブルースのカバー曲がほとんどで、しかも彼らのスタジオセッションはライブよりも大人しい音になってしまうのも相まり(ファーストアルバムがライブ盤となった理由もそこにあったようだ)、ヒットに恵まれているとはいえなかった。やがて、ジョルジオ・ゴメルスキーとメンバーはヒットを渇望し、チェンバロをイントロに導入したポップ志向の曲『For Your Love』を録音した。しかし、より純粋なブルースを志向していたクラプトンはそんな彼らと対立し、ブギ風のパートを渋々弾いてはいたが、それ以外はスタジオのベンチでふて寝をしていたという。それをきっかけにクラプトンはバンドの脱退を決意する。だが皮肉にも『For Your Love』は商業的に大ヒットした。

ベック時代(1965-1966年)

キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
ポール・サミュエル=スミス(ベース)
クリス・ドレヤ(リズムギター)
ジェフ・ベック(ギター)

強力なギタリストを失った彼らは、セッション・ギタリストとして名を馳せていたジミー・ペイジに声をかける。しかしペイジは、学友であったクラプトンを気遣うのと、セッションの仕事の方が忙しいため、代わりに推薦したのが幼馴染みのジェフ・ベックだった。 ベックは名声欲しさに即参加。彼はブルースもさることながら、ポップな感性や斬新な奏法も持ち合わせていたのでバンドとは利害が一致した。ファズを効果的に使用したポップソング『Heart Full Of Soul(ハートせつなく)』を皮切りに、『Train Kept A Rollin'』(「ブギウギ列車夜行便」という邦題でも知られる)といったハードロックの基礎となる曲を世に知らしめた。しかし、マネージャーのゴメルスキーとビジネス絡みで不仲になり、バンドはサイモン・ネイピア・ベルという人物を新しいマネージャーとして迎えた。アルバム『Roger The Engineer』はネイピア・ベル体制の下、僅か5日という期間で制作(スケジュールの都合ではないらしい)された。以前のR&B色は薄まり、当時の世相を敏感に感じていたメンバーのアイデアをふんだんに詰め込んだ、ポップな内容となっている。メンバーごとに担当を分担しているのも特徴で、詞をレルフが書き、プロデュースはサミュエル=スミスが(これが彼にとってのアルバム初プロデュースで、のちにプロデュース業へ転向させるきっかけとなった)、ライナーノーツをマッカーティが、ジャケットのイラスト、デザインをドレヤが手掛けている。そしてベックのフィードバック奏法は本作の目玉となった。

ベック・ペイジ時代(1966年)

キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
クリス・ドレヤ(ギター、のちベース)
ジミー・ペイジ(ベース、のちギター)
ジェフ・ベック(ギター)

又ここで大きな転機が来る。連日のライブ活動に嫌気がさしていたサミュエル=スミスが、以前から興味のあったプロデュース業に転向するという理由で脱退した。優れたベーシストだったサミュエル=スミスに抜けられたのは痛手だった。そこでベックはペイジをバンドに迎え入れることを提案。ペイジは快く参加した。そしてベースをドレヤに持たせ(ごく初期の短期間、ペイジがベースを弾いていた)、ツインリード編成にすることで弱点をカバーした。今までよりも更に攻撃的な『Happenings 10 Years Time Ago(幻の10年)』『Psycho Daisies』そしてミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『Blow Up(邦題:欲望)』の挿入歌として使用された『Stroll On(「Train Kept A Rollin'」の替え歌)』の3曲が作られる。バンド自体も出演した「Blow Up」は、本来ザ・フーが出演する予定だったが、都合でヤードバーズに変更された。この映画はベック・ペイジ体制の数少ない貴重な映像としても知られている。劇中では、ベックがギターを壊す演技をするシーンがある。このパフォーマンスを気に入ったベックは、当時のライブで盛んにギター壊しを行っていたという。しかしこの体制は数ヶ月と長続きせず、ベックがライブを欠席する機会が増えていった。メンバーとの不仲(レコード・コレクターズ誌上でのネイピア・ベルのインタビューによると、当時のメンバーの仲は最悪であったという)にストレスを溜め、アメリカでのツアー中に体調を崩したり、アメリカで知り合った女性と遊んでいたなどといわれている。そしてついにベックはある日、ペイジに「俺は辞める」と言い残し、バンドには二度と顔を出さなくなった。公的には「扁桃炎を患ったために脱退」とされた。

ペイジ時代(1966-1968年)

キース・レルフ(ボーカル、ハープ)
ジム・マッカーティ(ドラムス)
クリス・ドレヤ(ベース)
ジミー・ペイジ(ギター)

ペイジ時代は良くも悪くも一番長続きした時代である。ペイジはベック抜きで時々演奏していたため、そのまま4人体制でいけると判断。そしてミッキー・モスト・プロダクションに移籍。マネージャーのネイピア・ベルもベックを追う形で辞め、後任はペイジと旧知のピーター・グラントになった。この時ネイピア・ベルは「メンバーの中に凄く頭の切れる奴がいる…ジミー・ペイジさ」とグラントに話したという。ペイジはセッション時代に培った豊富なアイデアを持ち、より実験性の強いサウンドを推し進めていったが、当時のプロデューサー、ミッキー・モストやピーター・グラントは、ポップ志向の強い楽曲をレコードにすることをバンドに強要した。そして、その影響が顕著なアルバム『LITTLE GAMES』がアメリカのみでリリースされる。この頃、バンドはイギリスでの人気は落ち目であった。しかし海外ではまだ需要があったため、アメリカやヨーロッパ各国を回るツアー三昧の日々が続いた。ライブ演奏を楽しんでいたペイジをよそに、他のメンバー達は意欲を失いつつあった。レコード・セッションにも参加せず(させてもらえなかった?)、マッカーティはドラッグ漬けで時折演奏不能に陥ったり、元々低めな声のレルフは、ラウドになってゆくバンドのサウンドに付いて行けず声が破綻寸前だった。解散後に発表されたライブ盤『LIVE YARDBIRDS FEATURING JIMMY PAGE』は、そんな状況をしっかりと刻んでいる(後のレッド・ツェッペリンの初期のナンバー『Dazed And Confused』も歌詞以外ほぼ同じに演奏されている)。 そして、『Goodnight Sweet Josephine』『Think About It』のシングルを発表。1968年7月7日のラトンでのコンサートを最後に、レルフとマッカーティが脱退し、アコースティック・デュオを結成。ドレヤとペイジは同じミッキー・モスト・プロダクションにいたテリー・リード(vo.g)とプロコル・ハルムのB.J.ウイルソン(ds)をメンバーに誘うが、テリーには自らのバンドのアメリカツアーが決まっていたため断られ、ウイルソンにはプロコル・ハルムが成功しているとして断られた。ドレヤはメンバー探しの途中に脱退。残されたペイジはニュー・ヤードバーズこと、『レッド・ツェッペリン』を始動させるのである。

その後のメンバー達

キース・レルフはジム・マッカーティと共に、ルネッサンス、アルマゲドンなど様々なバンドを起こしたが、1976年、エレキギターの感電事故で死去。

クリス・ドレヤは写真家に転向。レッド・ツェッペリンのファーストアルバムのジャケット裏写真を撮影している。

ポール・サミュエル=スミスはプロデューサー業に転向。レルフらのバンドのプロデュースを含め、 様々なアーティストのプロデュースも行っている。

また、マッカーティ、ドレヤ、サミュエル=スミスらは1985年に『ボックス・オブ・フロッグス』(ペイジ、ベックもゲストで参加)として再結成。ボーカルにはジョン・フィドラーが参加。2枚のアルバムをリリースした。

新生ヤードバーズ

1992年より、ドレヤとマッカーティを中心にヤードバーズは新たなメンバーを加え再結成した。リードギターとベースはしばしば入れ替わっているものの、活動を続けている。2003年には35年振りとなる新作、『BIRDLAND』をリリースした。

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